いよいよ今週はジャパンカップウィークと言うことで、本日のブログネタはジャパンカップ関連で行きたいと思います。
今年の春先のことですが、競馬場の来場者プレゼントが当たりまして、「このクリアファイルの中から1点選んで下さい」と言われました。取り敢えず目についたディープインパクトのファイルでも貰おうと言いかけたところで、思わぬキャッチコピーに目を奪われました。
「栄光の数よりも、栄光への道のりが、人生を語る。君は、ヒカリデユール。」
一口馬主を始めた話のなかで触れましたが、自分が競馬に最初に熱中したのは小学生~高校生の間で、その後は多忙に任せて、50歳近くなるまでは競馬のことは忘れて過ごしました。そんな自分が「一番好きな馬は?」と聞かれたら迷わずに答えるのが、この「ヒカリデユール」の名前です。それ位、当時高校生だった自分に強烈なインパクトを残した競走馬がヒカリデユールでした。
そこで、クリアファイルを手に入れたのを機会に、ヒカリデユールのことを調べ直してみました。現代はありがたいことに、ネットが発達したお蔭で、当時の古い情報や映像を容易に入手することが可能です。おかげで、あやふやになっていた記憶を改めてふり返ることが出来ました。
始めに、数字で残る記録から紐解くと、ヒカリデユールの中央競馬戦績は僅かに7戦の記録が残るのみです。しかしその7戦の中身は極めて印象的なものでした。元々、ヒカリデユールは地方競馬の出身であり、その成績も38戦7勝で、決して目立った成績ではありません。更に、厳密にはサラブレッドですらなく、サラブレッド系種として扱われています。そんなヒカリデユールでしたが、中央競馬に移籍して、その潜在能力が一気に開花しました。
1982年、先ず移籍初戦の朝日チャレンジカップ(GⅢ)を人気薄を跳ね返して勝利し、一躍注目を集めます。更に、次走は天皇賞(秋)に出走して、これも2着に好走。そして問題の第2回ジャパンカップを迎えます。
前年から鳴り物入りで始まったジャパンカップでしたが、第1回の結果があまりに日本馬と外国馬との実力差を見せつけるものであったことから、第2回のジャパンカップでは有力な日本馬の回避が相次ぎました。この年齢になると、「勝ち目のないジャパンカップを回避して有馬記念に備えた方が良い」と言う大人の判断は十分理解できるのですが、これが当時高校生の目には「世界と戦う機会を得たのに、日本馬は戦う前から逃げてしまった」と映り、酷く落胆したのを覚えています。
結局、第2回ジャパンカップに出走した日本馬は全5頭しかいなかったのですが、その中の1頭がヒカリデユールでした。(今思えば、この時点ではヒカリデユールの有馬記念出走は条件的に難しかったのかもしれません。)そして、結果は勝馬ハーフアイストから僅か0.3秒差の5着と掲示板を確保し、日本馬では最先着を果たします。海外に日本馬の底力を示してくれたと同時に、回避した日本馬たちも見返してくれたと感動しました。
そして、クライマックスの有馬記念を迎えます。有馬記念にはジャパンカップを回避した日本馬達が多数出走してましたが、ジャパンカップの成績も受けて、ヒカリデユールもその中に加わることが出来ました。ヒカリデユールを推す自分としては、ここでもう一度力の差を見せて欲しいと思い、テレビを食い入る様に見ていましたが、スタートで他馬に挟まれる不利を受けて、悪夢の出遅れ…。結局、後方2番手からの競馬になり、最後の直線に向いた所でも依然として最後方でした。しかし、もう無理だと誰しも思った所から、ヒカリデユールは敢然と追い込みを開始します。不思議な力が働いたように中山の短い直線がポカリと開き、間を突き抜けてきたヒカリデユールが、最後は1人気のアンバーシャダイをゴール前で捉えます。
これらの成績を受けて、ヒカリデユールはこの年の年度代表馬にも選ばれて、名実ともに日本一の競走馬として認められました。
そして、その後のヒカリデユールですが、大阪杯で3勝目を上げた後、天皇賞(春)に出走しましたが、2周目に故障を発症して競争を中止。そのまま現役引退となりました。引退後は一応スタッド入りしましたが、血統的に良血ではなかったこともあり、僅か35頭に種付しただけで、種牡馬生活も引退してしまい、その後の消息は不明となりました。何とも寂しくて、またヒカリデユールらしい去り方の様な気もします。
一般に、地方競馬から移籍して活躍した馬と言うと、ハイセイコーやオグリキャップの名前が挙げられますが、ヒカリデユールと言う凄い馬がいたことも語り継がれて行って欲しいと願っています。クリアファイルのキャッチコピーにある通り、僅か3勝ですが、数では測れない栄光を残した競争馬でした。
(注)一般の発音はヒカリデュールでしたが、本文は登録名の通りヒカリデユールと記載しました。